もそもそ北京/第4日


▲Beijing Top Page
<Previous Page―――4―――Next Page>


天安門広場、空振り

 3月1日。この日は、寛街の一つ隣のバス停「北兵馬司(ベイピンマースー)」から、例の104路電車に乗って、東長安街へ。朝ラッシュは少し外したつもりだったけれど、それでも車内は大混雑で、リュックサックを背負っているぼくは、スリが怖い。──しかし不思議なのは、中国人民の方々はほとんどが手ぶらだということ。一体どこへ出かけるんだ、この人たちは?

 バスを降りて、長安街を西へ、天安門広場を目指して歩く。──この道は天安門の前を通って、北京の街を東西に突っ切っているが、本当に広い。片側4車線くらいあるんだっけ? 何故こんなにも広くしなければならないのか、というほどの幅だ。

──有事の際は滑走路になるのだ
と、むふふ氏が解説してくれる。なるほど、中央分離帯は植え込みなどにはなっておらず、鋳物の柵が並べられているだけだ。

 天安門広場。…100万人規模の集会が開けるというこの広場は、冗談抜きで、「人がゴミのようだ」(ムスカ大佐)。

天安門
北側には、長安街を挟んで、天安門。
人民大会堂
西側には、人民大会堂。
人民英雄記念碑
広場の中程には、人民英雄記念碑。
歴史博物館
東側には、歴史博物館・革命博物館。
毛主席紀念堂
南側には、毛主席紀念堂。

 人民中国という国家を象徴する、超特大の床の間のような場所である。

 しかし、毛主席紀念堂は開館時間ではなく、入れない。歴史博物館も、唐の時代の絵画展か何かをやっているようだが、そんなものに20元も払うのは惜しい。今日は金曜日で、午後は学生無料の日らしいのだが、切符売り場のおばさんに、「外国の学生証でもいい?」と訊ねると、「駄目〜」と言うので、とっとと退散する。

 天安門広場は、中国人民にとってもおのぼりさんスポットであって、地方から上京してきたらしい軍人のグループが、しきりにシャッターをきっていたりする。──ふん、軍と公安のカップルかよ、おめでてーな、みたいな2人もいる。

 凧を揚げているオッサンが何人もいる。平日の昼間から広場で凧揚げ? あぁ、凧屋さんなのか、と思ったが、、、??

 天安門広場はまた来ることもあるかな、毛主席紀念堂は一度入ってみたいんだけどな、、、と思いながら、今度は西単(シータン)へ。ここは王府井と並ぶ、北京の銀座通り。むふふ氏の案内で北京図書大厦という巨大な書店を見た後、肯徳基(ケンタッキー)に入り、「鶏腿漢堡(チキンバーガー)」と「中可楽(Mサイズのコーラ)」を注文した。14.50元(232円)。セット(套餐)にするとポテトがついて17.50元だったようだが。

 それにしても、やはり普通の市民にとっては、こういったファーストフードは、高い食べ物なのかも知れない。──少なくとも、日本の感覚のような“安い”ものではないだろう。なにせ、4元の「小椀麺」で満腹になれる国である。ここでは、マクドナルドも「麦当労餐庁(レストラン)」である。客は誰一人、トレイを片付けたりはしない。我々が日本でやるのと同じように片付けていると、他の客から、──何やってんだこいつらは? という視線が飛んでくる。


頤和園・円明園

 西単から、808路バスに乗って、北の郊外の「頤和園(いわえん)」へ向かう。この路線は「空調つき」バスで、均一料金ではなく、西単から終点の「頤和園北宮門」まで、5元だった。人民大学などを通って、1時間くらいかかった。

頤和園 頤和園(イーホーユェン)とは、清の皇帝の夏の離宮だったところで、西洋人向けの案内書には、ずばり「Summer Palace」と書かれている。──広大な敷地内はいくつかの区画に分かれていて、どこまで入れる券かで料金が違う。入る前にそんなことを言われても困るわけだが、20元(高い!)の基本の入場券を買って入った。小高い丘に宮殿が築かれていて、南側には昆明湖という、広い湖がある。地図で見るとたいしたことないように見えるが、そこは中国、スケールが違いすぎて、丘の上から見はるかすと、河口湖くらいはありそうだ。市内にこんな湖があるんだから、北京を歩いてると距離感に惑わされるわけだ。庭園には古い建物が散在していて、歩き回ったら結構疲れた。

頤和園
広すぎて観光客も少ない。日本人の女の子2人組を見かけたけど。

* * *

 入ったところよりかなり東に行ったところに出て、今度は円明園に向かった。──こちらはアロー戦争で英国の軍隊に破壊しつくされた離宮の跡である。途中、集落の細い路地に迷い込んだり、どこに円明園の入口があるのかわからずに延々と歩いたりして、やっと園内に入ったときはすでに夕闇が迫っていた。人はいないし、寒々しい雰囲気。

 ところで、自宅との連絡のために毎晩、電話はかけていたのだが、北京と東京では時差が1時間あるし、遅くならないうちに電話をかけようと、ほとんど真っ暗になってしまった園内の公衆電話から、自宅に国際電話をかけた。──内定先企業から書類が届いているぞ、と言われた。まだ開封していないと言うので、中身の想像はだいたいつくけれど、また2時間くらいしたら電話するので開けておいてくれませんか、と頼んでおいた。

 円明園を出たのは夜6時を過ぎていたと思う。むふふ氏の案内で北京大学の敷地内を歩いた。この国では大学は全寮制(?)で、敷地内に学生も教職員もみんな住んでいるから、規模は日本の大学と比較にならないほど大きいし、商店も並んでいて、“大学村”という感じである。さっと通り抜けただけになってしまったけれど(本当はもっと時間取れると思ってたんだよね…)、むふふ氏はしきりに懐かしがったり、こんな建物はなかったけど、と訝ったりしておられた。北京にも母校が1つあるなんて、羨ましい。

 さて、むふふ氏によると、大学の西側から、市街地の西直門(シージーメン)までバスで出ることができるということだったので、「中関村(チョングァンツン)」のバス停に出てみた。…しかし、バス路線も変わっているらしく、西直門行きのバス停が見当たらない。地図とさんざん睨めっこした結果、「320支」という路線で南西の「白石橋(バイシーチァオ)」という停留所まで行けば、そこから寛街に行く路線に乗り換えられることがわかった。

 中関村と言えば北京の秋葉原のようなところで、パソコンショップが並んだ通りがあると聞いてきたが、今回は時間も遅くなってしまったのでそれどころではなく、しばらくして来たバスに乗った。今度のバスはボロボロで車内も暗く、知らないところに連れて行かれる不安が少し。。。停留所の案内もないし、乗り過ごさないように車内でも地図と首っ引きだった。暗い中を目をこらして細かい字を見ようとするので、目がだんだん霞んでくる。

 夜8時半頃、なんとか無事に白石橋で降りて、寛街方面の「118路電車」の停留所も確認して、食事を取ることにした。道路沿いのレストランに入ったが、少し高かったのと注文を勘違いしたのとで、ナン風の脂っこいパイ生地のようなものをもそもそと食べただけに終わった。

 このお店で注文してから、近くの公衆電話でまた自宅に電話をかけようとしたのだが、あたりに1台しかない路傍の公衆電話は、アホみたいな男子高校生(?)が電話をかけてはかけなおし、また終わったと思ったらポケベルに打ち始め(一昔前の日本でよく見られた光景ですね)、という感じで、いつまでも電話を使っている。知り合いらしい高校生2号がやってきてそいつが使い始めたりして、──もう、アホかと、バカかと(-_-メ) …しかしこんな殺伐としたところ・時間帯で相手を小一時間問い詰めたりしたら、それこそナイフが出てきてもおかしくないし、下手な中国語は諸刃の剣になりかねないので、素人としてはただ大人しく、待つ。

 結局、電話をかけ終わってレストランに戻ったのは30分も過ぎた後だった。むふふ氏には大いに心配をおかけしてしまい、もう顔向けもできない。

* * *

 「118路電車」は、車体に「無人售票」と書かれていた。ほぅ、北京にもワンマンバスがあるのか、と思ったら、中扉から乗るとたしかに運賃箱があるものの、傍らに公交局のオッサンが立っていて、「入れろ!」みたいな手振りをする。──何の意味があるんだよアンタの存在には(笑)。1元コインを放りこんだけれど、うまく入れればおそらく、何のコインだかわからないだろう。──あんなの十円玉でも入れときゃいいじゃんね。石ころとかさあ。と、むふふ氏と二人でオッサンをけなしていた(笑)。

 今度はかなり車内が混んで、窓から停留所の名前が見えなくなったりして気をもんだけれど、今回も無事に目的地で降りられて、ホテルに戻った。


ぼくらテレビっ子

田教授 ところで、ホテルの部屋では夜のお楽しみがあった。広西衛星広播電台(衛星テレビ)で毎日放映していた、『田教授家的二十八个房客』(田教授の家の28人の下宿人)というドラマである。このドラマ、細かい設定はよくわからないのだが、上海の住宅地に住んでいる「田教授」(写真)と、同居の娘夫婦(初めは息子夫婦かと思ったが、どうも旦那はマスオさんらしい)を中心に、毎回いろいろな“房客”たちのエピソードが語られていく、ユーモアありペーソスありの、「渡る世間〜」みたいな(?)ホームドラマだった。

 台詞は字幕が出るので、ストーリーは追っていける。この田教授がかなりいい味を出していて、毎晩心待ち(?)にしていた。ホテルに帰るのが遅くなる日は、「今日は田教授に会えないじゃん!!」なんて言ったり。

* * *

 その他、現地の新聞は毎日、何かしら買っていたので(『北京晩報』、『信報』、『京華時報』などの地元紙。有名な『人民日報』は共産党の機関紙だからか、街角ではあまり見かけない)、世界的なニュースは滞在中もだいたい把握していた。以色列(イスラエル)と巴勒旦(パレスチナ)がどうのこうの、などと読解するのに手間はかかるが、大意はわかる。

 また、部屋のテレビではNHKの(海外向けの?)衛生放送も見られる。『クローズアップ現代』なんかも放送している。だから、日本語のニュースを聞こうと思えば聞けるのだが、まぁせっかく北京にいるし、という感じもする。

 ただ、天安門広場に行ったあとに、広島の原爆慰霊碑にペンキがかけられるいたずらがあったというニュースを、NHKで見た。──ひどい話だ、と思うと同時に、日本でもそういうところは兵隊に守らせておけばいいのに、と思った。たとえばこの国で、人民英雄記念碑にペンキを、なんて考えられないだろう。銃を持った兵隊が四六時中監視しているのだから。


制服の国・中国

 また、この国はあちこちで軍服姿を見かけるので、日本から来ると初めはビクビクしてしまうが、これもだんだん見分け方がわかってきた。

 まず、モスグリーンの制服は、人民解放軍(※下記注)。野戦服みたいなジャケットを着ている人と、正式な礼服っぽい上着を着ている人がいる。濃紺の制服は公安職員で、これは一般的に言う警察官、正式には「公安人民警察」と言うらしい。また、少し緑がかった?スモーキーグレーの制服・制帽は、「保安」というワッペンをつけて、街角で交通整理とかしている。公安と保安がどう違うのかよくわからないが、刑事・治安警察と交通警察の違いかも知れない。あと、そこらへんの高校生とかも仰々しい軍隊風の制服を着ていて、最初は少しドキドキしてしまうが、これはただのガキである。

(※)実は、滞在していたときは、外国公館の前に立っているのも、天安門広場の人民英雄記念碑を守っているのも、モスグリーンの制服はみんな解放軍なのだろうと思っていたので、上のように書きました。しかし、5月に瀋陽の日本領事館で起きた侵入事件の際に、解放軍とは別に、「武装公安」という、一種の警察軍のようなものがあることを知りました。国家の警察組織である「公安人民警察」に対して、「武装公安」は共産党の組織であるようです(そういえば、人民解放軍も、国家の軍隊ではなく共産党の軍隊です)。このあたりの分掌や位置づけはよくわかりません。あと、「保安」については、「住宅地区保安人員」という人たちがいるらしく、これなのかも。…まぁとにかく、国家の暴力装置があっちこっちを歩いてる、ということには変わりはないし、日本とはその辺の風土が全然違いますよね。

 肝心の治安がどうなのか、という点だが、たった10日間の滞在では全然わからないけれど、やはり混んだバスや地下鉄の車内はスリが出るらしい。ぼくはバックパックを背負っていたので、前に抱えたり手で持ったりして面倒だった。前述のように、中国人民はほとんど手ぶら同然なのだ。むふふ氏は小さめのポシェットしか持っていなかったので、賢い装備だと思った。…また、円明園へ歩く途中、歩道に停めてあったサンタナからけたたましいサイレンが鳴り響いて、数人の男たちがバラバラと逃げ去るのを目にした。どうやら防犯装置が働いたらしい。──しかし、こちらの車の防犯装置はどうやら、普通にキーで開けるときにも短いサイレンが鳴るらしく、いちいち驚かなくてもいいらしいけれど。

 また、一応この国では公共の場所は禁煙ということになっていて、歩き煙草はいけないらしい。たぶん誰も守っていないし、ぼくも煙草は吸っていたが、もしかしたらむふふ氏は気にしていたかも知れない。こんなところで謝るのもどうかと思うけれど、どうもすみませんでした。



▲Beijing Top Page
<Previous Page―――4―――Next Page>

inserted by FC2 system