もそもそ北京/H小姐からの手紙


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H小姐からの手紙

 帰国してから、数日。…むふふ氏とぼくは町田のジョナサンに2回も集まって、辞書を引き引き、手紙を書いた。

 ──過日は大学を案内してくださってありがとうございました。中国朋友が親切にしてくれたこと、とても嬉しかったです。…お別れした後は、古蓮花池などを散歩して、19時03分の特快で北京に戻りました。翌日は万里の長城に行くつもりでしたが、疲れていたので、じゃわじゃわは廬溝橋へ、むふふは市場で買い物をしていました。…いま日本ではとても暖かく、桜が咲いています。来月から、むふふは大学院へ進学し、じゃわじゃわは就職します。日本に来ることがあったらぜひ連絡をくださいね。…お身体をお大切に。。。

 大学のキャンパスや、ぼくたちが住む町田の様子を写真に撮って、何枚か同封して、送った。

* * *

 4月に入って、ぼくが就職先の宿泊研修から帰ってくると、保定からのエアメールが届いていた。差出人はH小姐だった。

 ――こんにちは。お手紙ありがとう。写真もどうもありがとう、あなたたちの学校もとてもきれいですね。
 列車の上でお会いしたのも縁です。中国人は「縁」を信じていて、得難い縁というものを大事にするのです。
 …古蓮池に行かれたそうですが、どうでしたか? あそこの中日友好の証を知っていますか? じゃわじゃわ君が廬溝橋に行った理由を知りたいです、あなたはそこの歴史を知っていますか? 廬溝橋はかつて日本が中国を侵略する最初の銃弾を放った場所です(1937年)。中日両国の青年は歴史を鑑とし、不愉快な歴史を再現させてはなりません。中日が永遠に平和で、よい隣人となることを願っています。…
 …私たちの学校の写真を同封しました。じゃわじゃわ君はむふふ君に手紙と写真を廻してあげてください。
 祝:工作順利、学業有成、万事如意、漢語越来越棒。

 私たち中日両国の青年は。。。再び集まった町田のジョナサンで、むふふ氏とぼくは、「う〜ん」と唸るしかなかった。

* * *

 ぼくが廬溝橋まで見に行って、見なかったものは一体、何であったのか。なぜぼくは見ずに帰ったのか。…

 ぼくたちは、自分たちの大学について、「いまの日本の首相の小泉が卒業した大学だ」と説明した。今、あの国で、その小泉首相と日本という国はどう思われているのだろう?

 ――いろんなことを思うけれど、一つだけ言えるのは、中国は本当に遠い国だった、ということです。あっけなく飛ぶことができるけれど、遠い国。

 2008年には北京でオリンピックが開かれます。そのとき、ぼくは28になっているはずです。ぼくがそのときどんなふうに暮らしているか、、、と考えても仕方ないのですが、ぼくは、2008年には北京に、中国に、もう一度行かなければならない、と思います。北京の街が、どんなふうに変わったか、また、どんなふうに変わっていないか、見たい。また、街角で買った『北京晩報』を小脇に挟んで、バス停に走ってみたい。そのときまで、ぼくが、学生時代に勉強した中国語を忘れず、さらに「漢語越来越棒」だったとしたら。そのときまで、あの埃っぽい街々と、押し合う人々の波が、ぼくたちの手の届くところにあるとしたら。

 中国は遠い国でした。

静かな、胡同の家並み。これから、こういった古い住宅群はどんどんなくなっていくはずです。



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