じゃわじゃわ旅行記/北へ。2002年秋[1]


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上野駅15番線ホーム
「ふるさとの 訛なつかし/停車場の 人ごみの中に/そを 聴きにゆく」。啄木へのオマージュ。

昭和時代の旅へ

 11月初旬の夕方、品川駅の「みどりの窓口」にある指定席券売機で、11月15日金曜日の寝台特急『はくつる』の寝台券を引き取った。「えきねっと」で予約していたものだ。

 これで旅程が決まった。日曜夜の千歳発羽田行きの全日空は“早割21”で払い込んである。土曜の一泊は小樽のビジネスホテルに電話をかけた。ぼくにしてはずいぶんきっちりと宿泊や交通を押さえた旅行になったが、会社を休むことなく北海道まで行こうという話であるから、おろそかにはできなかった。

 来月から、東北新幹線が八戸まで延びる。それに合わせたダイヤ改正で、この上野発青森行きの寝台特急『はくつる』は廃止されることになっている。

 上野駅と東北の間には、二昔前までは多くの夜行列車が走っていた。東北線を直行する『はくつる』の他に、常磐線まわりの『ゆうづる』、奥羽線まわりの『あけぼの』、羽越線の『鳥海』なんてのもあったかな? 急行も『八甲田』『津軽』などあって、これらは出世列車でもあったし、北海道への連絡列車でもあったわけだ。そして、青函連絡船。函館。──なんだか演歌の世界みたいだけれど、そんな昭和時代の旅に出てみようというわけだ。

* * *

 上野駅には国電の高架ホームと、長距離列車用の地上ホームとがある。後者は在来線の13番線以下で、中央改札口を入るとすぐ正面にある、薄暗い、行き止まり式のホームだ。このホームに出入りする長距離列車など今ではほとんどなく、普段は宇都宮線や高崎線の近郊電車に使われている。長野行きの『あさま』も新幹線になってしまった。わずかに常磐線の『ひたち』が30分おきに出ていくのが気を吐いているだけになっている。

 金曜の夜10時、15番線。啄木の歌碑のところに、人だかりがしている。大げさなカメラや三脚を担いだ鉄道マニアたちだが、一人旅らしい若い女の人も使い捨てカメラを構えたりしている。道ゆく人は何事かと訝しげに様子を見ていく。

寝台特急『はくつる』号 後ろ向きに入ってきたブルートレイン『はくつる』は、ちょっとくたびれた列車だった。車両によっては塗装が大きく剥がれたりしている。さぞ何度も塗り直しているのだろう、青い塗料が層になっていた。

 そんなおんぼろブルートレインだが、もうすぐ廃止だからか、金曜の列車だからか、発車までに寝台はあらかた埋まった。ぼくはB寝台の上段、正直言って狭い。定刻は22時23分、宇都宮線が遅れているとかで少し待ったが、数分でゴトッと動き出した。

 通路側の補助椅子を引き出して、上野広小路のコンビニで買った弁当を食べ、喫煙車に行ってしばらく煙草を吸った。乗客は、一見して鉄道マニアとわかる人たちもいるが、老夫婦、若い男女のグループなどいろいろである。一人旅の若者も多い。近くの寝台では、一杯やっていい気分の男たちが、初対面なのに仲良くなって話し込んでいる。夜更けまでうるさかったら遠慮なく怒鳴りつけようと思っていたが、大宮を出て自分の寝台に戻ったらいつの間にか眠ってしまった。というか、狭い自分の寝台以外に居場所になるようなスペースは、この列車にはないので、おとなしく寝るしかないのだ。明日の朝は8時17分に青森に着くはずだが、食堂車はもちろん、車内販売もない。味気ないものだけれど、真夜中の線路を、列車がゴトゴトと北へ向かって走っていることだけはたしかだった。

車内
B寝台の車内。


船へ乗り継ぐ

一夜明けると雪景色 窓を叩く雨音で目を覚ました。雨音と言うよりも、雪らしい。しばらく寝台に横になったままぼんやりしていたが、梯子を使って通路に降りてみると、窓の外は雪景色だった。

 盛岡を過ぎて北に向かっているあたりらしかったが、どうも30分ばかり遅れている。一戸、二戸と止まっていく。雪は降っておらず日差しが出てきたが、ホームの端は凍っているし、列車のデッキも滑って危ない。

 盛岡から八戸までは、今度の新幹線の開通に合わせて、在来線がJRから見捨てられることになっている区間だ。二戸では隣に真新しい新幹線駅が並んでいて、「いわて銀河鉄道線乗り換え」などと書いてあるのが見える。JRから路線を引き取って運営する第三セクターの会社がそういう名前なのだが、同じ岩手県でも花巻あたりとこのへんは相当離れている。賢治先生が聞いたら「関係ない」と言われそうだが。

 寝台特急は八戸、三沢、野辺地と、ほぼ30分遅れのままぬくぬくと走った。左窓の水田の彼方に、雪をかぶった富士山のような山頂が見える。八甲田山だろう。

 8時52分に青森駅のホームに着いた。客車から出ると、さすがに空気が冷たい。

* * *

 列車が遅れたので、実はやきもきしていた。青森からは、フェリー乗り場まで1キロほど歩いて、9時10分に出港する函館行きのフェリーに乗ろうと思っていた。しかし、『はくつる』の遅れがひどいと、間に合わなくなるかもしれなかった。

 函館に行くにはもちろん青函トンネルを通る列車がある。8時51分に出る大阪からの寝台特急『日本海1号』に立席特急券を買って乗り込む方法と、9時15分発の快速『海峡3号』がある。実はこちらで行ったほうが、函館に着くのはフェリーよりも1時間ばかり早い。

 『はくつる』が青森に着くまでずっと迷っていたが、8時52分という大変微妙な時間に着いてしまった。ホームの向かい側に『日本海1号』は待っていたけれど、ぼくは決断して(?)、ホームや跨線橋を猛然と走って改札口を出た。青森駅がどんな駅だかよく見る暇もなく、水っぽくなった雪をばしゃばしゃと踏んで、タクシーに乗り込んだ。「フェリー乗り場まで。10分くらいで着くよね?」「何時の船ですか」「9時10分、函館行き」「はいわかりました」

 駅前広場は駅の東側だったらしく、タクシーはぐるっと回り込んで青森ベイブリッジを渡り、西側のフェリーターミナルへ向けて町外れを突っ走った。「どちらから?」「東京から。」

* * *

 タクシーはフェリーターミナルの玄関に着いた。1,390円を払ってターミナルの建物に駆け込みながら、列車で行ったほうが早いのにぼくも相当アホだな、との思いも頭をかすめた。

 東日本フェリーの窓口で「次の函館行き、二等一枚」と言うと、「乗船名簿書いてください、急いでください」──そうか、船だからね。うっかりしてた。名前と住所を書き殴って提出する。ユースホステル会員の割引で1,670円。ターミナルの建物を出るとそこはもう埠頭で、巨大なフェリーが船腹の口を開けてこちらを向いていた。いそいそと乗り込み、車両甲板の隅の細い階段から船室に上がる。桟敷席に荷物を置いて一息つくと、船はもう埠頭を離れ始めた。

青森港を出港。

 「二等一枚」とは言ったものの、この船には二等しかなかった。長距離トラックの運ちゃんが多いのかと思ったが、若者の集団や家族連れが多い。そもそも、売店兼カウンターの壁に貼られたメモによると、この便の乗船客はたったの10組20名とのこと。経営、大丈夫なのかな。。。

津軽半島の山並み 遊歩甲板に出てみたが、左舷側に立つと、北西から冷たい風がまともに吹き付けて、息ができないくらいだ。ほうほうの体で暖かい船室に逃げ込む。左舷には津軽半島、右舷には下北半島が見えて、雪をかぶった山並みがどこまでも続いていた。

 船というものは、トロそうに思えるけれど、いざ乗り込んで舷側に出てみると、波を蹴立ててかなりのスピードで走っている。前方から別の船が来た…と思っていると、あっという間にすれ違ってしまう。それでいて、風景はどこまで行っても似たようなもの、この先に本当に北海道があるのか、という気になってくる。

 桟敷席から階段を上がると、眺望のいいラウンジと椅子席があったので、そちらに座ることにした。ぽかぽかと暖かく、売店で買ったチップスをむさぼり食って、CDを聴きながらぼんやりしているうちに、いつの間にか眠ってしまった。


函館に上陸

函館山が 目が覚めて、見回してみると、右舷側に函館山が見えてきていた。はるばる来たぜ…という歌があるけれど、こうして来てみると本当に遠いところだ。

 青函連絡船の時代なら、ぐるっと港に回り込んで、市内の中心部にある函館駅に着いたはずだが、現代の自動車用フェリーは、函館山を右に見ながらそのまま素通りして、市内の北西、七重浜に近い東日本フェリーのターミナルに着く。不便だが、海に突き出した狭い函館の市街に入るのは車からすると面倒なのだろうし、仕方がない。

 12時50分、フェリーターミナルに着くと、まず車を先に下ろして、徒歩で下船する客は待たされる。しばらく桟敷席でぼんやりと待ってから、いよいよ下船すると、広い駐車場に放り出されたような感じになった。勝手知った人たちは迎えの車なりバス停なりにずんずん歩いて行ってしまい、ちょっとおろおろする。

 バス停からは函館駅行きのバスがもうすぐ来るようだったが、ぼくはまず、駅前地区よりも繁華街の五稜郭あたりに行こうと思っていた。フェリーの中で係の人に、すこし歩いて通りに出ればその方向のバス停があるよ、とは聞いていたのだが、何にもないところに放り出されると、ちょっと困ってしまった。

 気を取り直して、とぼとぼと歩き出すと、後ろからタクシーが来て、ぼくの横で止まった。運転手のおっちゃんが窓を開けて、強い訛りでぼくに話しかける。

 「どこまで行くんですか」
 「バスで五稜郭の方に行こうと思って、こっちに行けばバス停があるよね?」
 「俺ちょうど帰るところだからさ、乗って行きなよ」
 「いくらくらいかかるかな? 五稜郭の電停のある十字路、あのあたりまでなんだけど」
 「千五百円くらいかなぁ」

 少し迷ったが、せっかく停まってくれたことだし、貧乏旅行をしてるわけでもなし、と思って、乗ることにした。

 「どこから来たんですか」
 「東京から」
 「あれまぁ、遠いとこから。こんな寒い時期に来んでも」
 「ははは、ちょっと旅行したくなったんでね、会社が土日で休みだから」
 「そうね、一人でぶらぶらするのが一番ね。気兼ねが要らねえしね」

 …こんなところに理解者が(苦笑)

 「五稜郭の公園ならここを左に曲がるんだけど?」
 「いや、五稜郭に行きたいわけじゃなくて…。『五稜郭公園前』っていう電停がある十字路があるでしょ、繁華街になってる。あのあたりに行きたいんですよ。ちょっと離れてるでしょ、電停と五稜郭は」
 「お客さん函館はもう何度も? 詳しいの?」
 「ん〜、高校生の時に来たことがあるだけですよ」

 おっちゃんと話をしながら、フェリーターミナルから15分くらい。――函館山の夜景が見られないかも知れないよ、道路は冬季閉鎖だしロープウェイが何日か点検中だったような気がする、ちょっと確かめてみてね、などと教えてもらいながら、西武デパートや丸井今井デパートがあるあたりに着いた。目指す十字路の手前でちょうど信号で停まったところで下ろしてもらった。1,510円だったが、おっちゃんは「ちょうど帰るところ乗ってもらったから」と言って、10円返してくれた。…もうちょっとがばっとリファンドしてくれてもいいのに、と思うが(苦笑)、まぁいいか。

* * *

 函館の玄関口である駅前地区に入らず、裏口からこそこそと上がり込んだような感じになったのは、まず五稜郭の十字路の近くにあるラーメン満龍で食事にしようと思っていたからだった。ここは、初期のジュディーアンドマリーのファンなら知ってるはず?のラーメン屋さんで、ぼくは高校2年の頃に一度来たことがある。正確な場所を覚えていなかったが、電車通りを歩くとすぐに見つかった。

函館市本町、電車通り沿いの「サッポロラーメン満龍」 店内は6年前とほとんど変わっていないように見えた。学校帰りの女子高校生などが来ているが、行儀はすこぶる良い。前回は納豆ラーメンを食べたような気がするが、今度は「味噌牛乳ラーメン」(700円)を頼んでみた。出てきたのは、牛乳ラーメンとは言いつつもバターの塊がどーんと入った、ほとんど味噌バターだったけれど、スープがすこし白っぽいのは紛れもなく牛乳である。ラーメンは好物なので、スープまでごくごくと飲んで満腹になった。店内は石油ストーヴが入っていて、暖かい。

 店の入口あたり、レジの近くの壁に、YUKIちゃんが来たときの写真が貼ってあったりして、…でも前に来たときはもっといっぱい貼ってあったような気がするなぁ、ぼくの気のせいかなぁ、などと思いながら、素知らぬ顔で店を出た。

 このあたりではモスバーガーにも入ったんだけどなぁ、と思いながら電車通りを歩くが、どうも見当たらない。撤退してしまったのかも知れない。空は晴れているが、小雪が舞ってきた。十字路のミスタードーナッツでコーヒーを飲む。セーラー服に黒ストッキングの女子中高生でいっぱいだった。

 電停から谷地頭行きの市電に乗る。電車の中は陽射しが入ってぽかぽかと暖かいが、窓の外は雪が舞っている。東京ではまず見られない光景で、よほど上空の空気が冷たいのだろうが、夢を見ているような、不思議な世界だった。


立待岬から、残雪を踏んで

函館市電、谷地頭電停 30分くらい市電に乗って、終点の谷地頭で降りる。ここは函館山の東側、日陰なので薄ら寒い。

 山裾が海に落ちる中腹に市営墓地があって、その中を歩いて行く。上り坂の途中に、「石川啄木一族の墓」がある。

 ――啄木の北海道時代はそれほど長くないのだが、なぜか墓が函館にある。有名な「われ泣き濡れて蟹とたはむる」の大森浜はこのすぐ近くである。彼にしてみれば淋しく暮らしていた土地だろうし、むしろ故郷の渋民に埋めてあげたほうがいいのではないか、という気もするが。

 そこからまたしばらく歩くと、立待岬。この寒い季節にここまで歩いてくる観光客はほとんどいなかった。

石川啄木一族墓 立待岬

* * *

 岬の手前から山の方に入っていく道がある。残雪に足を取られながら、熊笹の茂る中を歩いて行くと、妙心寺という日蓮宗のお寺の裏に出て、そこに碧血碑(へっけつひ)という碑が立っている。

碧血碑 これは函館戦争で死んだ幕軍兵士の慰霊碑で、立てられたのは明治8年。意外に早い気もするが、考えてみれば、その頃にはもう榎本武揚も大鳥圭介も明治政府の要人だったわけだ。

 しかし、このあたりは深閑とした山の中で、摩耗してのっぺらぼうになった小さなお地蔵さんが路傍にいたりして、ちょっと怖い。夜になると何か出てきそうでもある。碑の右手にはぼろぼろのあずまやがあって、中には、新撰組マニアの人が書くのだろうか「碧血碑ノート」なんてものが置いてあるが、ぱらっと見てみたかぎりでは、「ノートが持ち去られた」「ペンが持ち去られた」という同一人物による長文の怒りばかり。…

* * *

 お寺の表側に出て、八幡宮の境内を通り過ぎて、山の中腹を横断する感じで歩いて行く。坂がちな住宅街で、除雪されていないところだとつるつると滑って危ない。

 函館公園の中には、開拓時代の白い木造の博物館が残されていたが、これはもちろん保存されているだけだ。しかし、戦前のコンクリート造りの建物が、市立図書館として今でも使われているのにはびっくりした。温かみのある建物で、中ではちゃんと職員さんが働いているし、市民の人も出入りする。なんだかうらやましい。公園には鹿の檻や、こぢんまりした遊園地もあったが、遊ぶには寒すぎる季節なのだろう、人影はなかった。

写真ではわからないけれど、開拓使の星のマークがついていた 現役の市立函館図書館

* * *

 だんだん暗くなってきて、元町の方へ歩いて行く。ハリストス正教会などがある、函館観光の中心地で、バスガイドさんの旗に先導された団体様がぞろぞろと歩いている。淋しいところを歩いて来たので、ここだけ別世界のようだ。

 函館山のロープウェイ乗り場には長蛇の列ができていた。登山道路は冬季閉鎖期間に入っているから、観光バスで来た団体様も、ここでロープウェイに乗らなければ函館山には登れないのだ。ぼくも時間があったら夜景を見てみようかと思っていたのだが、列を見たとたんにその気が失せた。

 元町地区については有名な観光地なので、あまりくどくどとは書かないけれど、この寒い季節でもこれだけ観光客が来ているのか、とちょっと驚いた。

函館は坂の街。 夜のとばりが下りる

 旧ロシア領事館の方へ、住宅街の間をうろうろと歩いたが、一度、つるっと滑って派手にしりもちをついてしまった。左のひじも打って、じんじんと痛む。ペットボトルを入れて持っていたコンビニのビニール袋もビリビリに破れた。それだけで済んだからよかったのだが、実はその時にちょうど後ろから車が近づいてきていた。…ちょっとタイミングが違ったら、、、と思うと、ぞっとする。

 そんなことがあったので、歩き回る気もしなくなって、ロープウェイ乗り場のあたりから、怖々と坂を下りて、十字街の電車通りまでたどり着いた。ロープウェイは「30分待ち」という電光掲示が出ていて、乗り場の建物をぐるっと行列が取り巻いていた。広い駐車場は観光バスがひしめいていて、これでは山に登ったところで何も見えないだろう。スリなんかも出るという話である。

 十字街は、「函館どっく前」行きと「谷地頭」行きの2つの系統の市電が合流するところで、このあたりが往年の函館の繁華街らしい。いまでも5分ごとに市電がやって来る。海側が昔の倉庫街で、今ではおしゃれなお店なんかが建ち並んでいるらしいが、一度歩いたことがあって雰囲気はわかっているので、市電に乗って函館駅に戻ることにした。

東欧のような街角、函館・十字街付近 市電が走り去る


闇の中を列車は

 函館駅に戻ったのは夕方6時前。「みどりの窓口」で、小樽経由新千歳空港までの乗車券と、長万部までの自由席特急券を買う。18時20分発の札幌行き特急『北斗19号』は、函館駅の湾曲したホームに青い車体を連ねて停まっていた。青森からの快速『海峡』号と接続を取って、数分遅れで発車した。

 自由席車は一番前で、さらにその最前部の座席から素通しで前が見えたので、そこに座ったけれど、真っ暗で何も見えない。車内もがらがらで、ぼくの乗った車両には片手で数えられるほどしか乗客がいない。ディーゼル特急列車はエンジン音を震わせて、闇の中を突っ走っていく。

 これから小樽に行くのだが、この列車で札幌まで行くのではなく、長万部で下りてローカル線に乗り換えることにしている。つい居眠りなどして乗り過ごしてしまうと困るので、こらえていたのだが、明るい時間なら大沼や駒ヶ岳、噴火湾などが望めるのだろうけれど、景色は見えないし、函館のコンビニで買ってきたパンを食べ終わってしまうと、退屈になった。夜行列車に乗っているような、けだるい気分だ。

 車内販売のワゴンがこんな最果ての座席まで来たので、有名な「森の『いかめし』はないんですか?」と聞くと、そういうのは個数や季節が限定だったりするので、こんな車内では売っていないらしい。そういうものなのか。あれ、おいしいんだけどな。

* * *

 19時38分、長万部に到着。特急列車はここから太平洋側、東室蘭や苫小牧を通って札幌に向かうが、山を越えて日本海側に出る、倶知安・小樽方面札幌行きの鈍行列車に乗り換える。19時48分発、ワンマン運転の2両編成のディーゼル列車で、顔には雪をたくさんつけていた。倶知安方面への最終列車である。この列車もがらがらで、4人用のボックスシートを一人占めした。

 列車は夜の山間を右に左にカーヴしながら、ゆっくりと走っていく。走っているとわからないけれど、駅に停まると、粉雪が降りしきっていて、ホームにはふくらはぎあたりまで雪が積もっていた。

 車窓には雪をつけた木々が踊り、下草も雪に覆われている。ときおり現れる街は、国道5号線に沿って人家が並んでいるけれど、静まりかえって、車も人も通らないように見える。蘭越、倶知安、小沢…、ナトリウムライトのオレンジ色の光だけが、そんな街を照らしていた。

 21時25分のニセコと、22時41分の塩谷で上り列車と行き違った。余市からは日本海の海岸沿いを走っているはずだが、どうせ何も見えない。ただ、山間を淡々と走るローカル線に揺られ続けて、左窓に街の灯が見えてきた。点々とした灯りが視界に広がって見えて、それだけで大都会に出たような気がする。22時52分、小樽に到着。



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